真和志地区

1.陸軍病院識名分室壕
識名・真地
南風原陸軍病院に学徒動員された、一高女3年生9名教師2名が配置された。看護活動、死体埋葬、水くみ、飯上げなどの任務にあたった。(ひめゆり同窓会 宮城喜久子さんの証言) 識名園の池側から南東に降りる斜面。識名園の柵が施されて、降りられない。市民体育館の北東側だが、そこからも行けない場所。(識名園は国指定名勝、世界遺産)(那覇市教育委員会97年調査)

2.識名園 勧耕台下の壕
真地421-7
比嘉盛徳さんによると(大正10年10月25日生、陸軍病院識名分院の構築壕作業に従事)見張りのための壕だったという。また、嘉手納良一さん(1927年1月10日生まれ)の証言によれば、この壕は、防衛隊の待機・避難のために使われたもので、中には40〜50人ほど入ることが出来たという。勧耕台の下の部分に坑口があったし、また現在も勧耕台のすぐ東側の部分に残る垂坑道は空気穴でもあり、また出入りにも利用していたという。(識名園は国指定名勝(那覇市教育委員会97年調査)

3.石部隊野戦病院分院の壕
識名4-1-8
自然洞窟で、戦時中には近くの住民が避難していたが、後に軍によって追い出されたとの証言あり(自治会長)現場は光明寺側の階段を上り、駐車場横の細い路地よりはいる。そこは拝所となり、その奥は土砂で埋もれている。このあたりは全部つながっているとのこと。 (那覇市教育委員会97年調査)民家の下、全長約20メートル。入口1カ所。奥の方は土砂が流れ込んでいる。拝所。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

4.識名4丁目の壕
識名4
那覇市史第2巻中の6、島尻郡旧真和志村戦争記によると、繁多川、識名等の部落では付近に自然壕があったので、区民は北部に疎開しろと言われても、一人として移動しなかったが、戦況が不利になると軍が強制的に住民を追い出した。その後、他の部落よりも島尻で多くの犠牲者を出したとのことである。識名4丁目の壕はほとんど、新築・改築のため埋められている。(那覇市教育委員会97年調査)

5.識名4丁目の壕
識名4-9-46
戦前は区民が帽子を洞窟で編んでいたという(ボウシクマー)戦時は初め住民が隠れていたが後に軍の哨戒になったという。現場は鉢嶺宅だが、出入りは平良晨吉宅の路地から階段があり、上にあがる。壕の入り口は、鉄格子で閉じられている。入口付近に香炉がある。(那覇市教育委員会97年調査)全長約100メートル。E字型築。 入口3カ所の内2ヵ所は外から石でふさがれている。落盤 しやすく石がゴロゴロしている。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

6.東バンタ
識名4-15付近(那覇市教育委員会97年調査)

7.識名霊園内の壕
識名4-17
識名霊園南側墓地地帯にあり、「花城門中墓 昭和53年1月建立」の墓の後背の岩盤に壕の入り口はある。入り口はブロックが積まれていて、その大半がふさがれている。(那覇市教育委員会97年調査)全長約40m。入口1カ所。小さな滝もあり壕内は川になっている。木の根っこや壁に石灰がくっつき、まるで鍾乳洞のよう。途中より落盤。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

8.繁多川公園内の壕群?
繁多川4-19(繁多川公園内)
繁多川公園敷地内の南側樹林地後背の石灰岩地帯にある。壕の入り口は、公園路よりはっきりと見ることが出来る。配置的には、公園の東端部分にあたる。(那覇市教育委員会97年調査)奥行約20メートルの鍾乳洞。大量の薬ビンがあった。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

9.繁多川公園内の壕群?
繁多川4-19(繁多川公園内)
日本軍が使用。繁多川公園敷地内の南側樹林地後背の石灰岩地帯にある。壕の入り口は、築山のように盛り上がっていて、クワズイモ等が繁茂している場所にあるため、公園路からは確認出来ないが、近くで確認した感じでは坑口に土砂が堆積している形跡はなく、良好に保たれているように感じる。(那覇市教育委員会97年調査)全長約21メートル。T字型。腐敗した坑木が散乱し ている。落盤しやすく石がゴロゴロしている。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

10.繁多川公園内の壕群?
繁多川4-19(繁多川公園内)
構築壕日本軍が使用。繁多川公園敷地内の南側樹林地後背の石灰岩地帯にある。壕の入り口の前には倒木がまるで門のように横たわっている。壕の入り口は、公園路よりはっきりとみることができる。(那覇市教育委員会97年調査)

11.繁多川公園内の壕群?
繁多川4-19(繁多川公園内)
繁多川公園敷地内の南側樹林地と土砂崩れ防止のためようへき部分とのほぼ境目の部分に位置する。かなりの傾斜がある同公園内のかなり下の公園路からも、はっきりと壕の入り口を見ることが出来る。(那覇市教育委員会97年調査)奥行約5メートル、幅約4メートル、高さ約2.5メートル。 入口は石積みされている。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

12.シガイノガマ
繁多川4-24(墓地地帯)
知念堅亀さんによれば、「シガイノガマ」と呼ばれる自然洞窟を利用した民間壕があった。現在、墓地地帯となっており、壕は消滅している。(那覇市教育委員会97年調査)  

13.シガイヌカーの壕
繁多川4-24(金城ダム南側斜面地)
知念堅亀さんによれば、この壕の井戸は「シガイノカー」と呼ばれるもので、井戸の周辺の空き地を壕として、利用したものであるという。また、この傾斜地は戦前は首里金城町の当真家(華茶苑)の土地で"トーマサンエン"と呼ばれていたという。墓地地帯の北側、金城ダム南側斜面地の切り立った石灰岩地帯にあり、入り口周辺にゴミが散乱している。坑口が大きいため、「壕」として利用されたと感じられるが、右側部分(向かって左側は井戸)は次第に土砂が堆積して埋まってきている。(那覇市教育委員会97年調査) 奥行約5メートル、幅約10メートル。 石積みされた井戸に湧水が満杯。(1フィート運動の会92年〜93年調査)


14.トーマサンエンの壕
繁多川4-19(金城ダム南側斜面地)
知念堅亀さんによれば、この壕のある傾斜地は、戦前は首里金城町の当真家(華茶苑)の土地で"トーマサンエン"と呼ばれていたという。壕の入り口はほとんど土砂で埋まり、高さは20〜30cmほどしかない。入り口のすぐ右側には木が生えていて、その成長によって、入り口がふさがれるのではないか、と思われる。(那覇市教育委員会97年調査)奥行約6メートル、幅約5メートル。 入口が土砂で埋まり高さ30センチしかない。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

15.トーマサンエンの壕
繁多川4-19(金城ダム南側斜面地)
知念堅亀さんによれば、この壕のある傾斜地は、戦前は首里金城町の当真家(華茶苑)の土地で"トーマサンエン"と呼ばれていたという。切り立った琉球石灰岩とクチャの層の境目に構築壕されている。入り口近くまで植物が繁茂しているが、土砂で埋まってきているような様子はみられない。(那覇市教育委員会97年調査)全長約10メートル。水がたまっている。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

16.武部隊の壕 真地
(金城ダム上部貯水池西側斜面)
吉嶺さん(明治45年生まれの女性)によると昭和19年に武部隊が構築壕した壕があって、コの字型に構築壕されていたという。吉嶺さんはこの壕がある斜面の対岸に住んでいて、武部隊が壕を構築壕中に食事の差し入れの際に壕の中に入った。また、知念堅亀さんによると、武部隊が台湾に移動してからはその壕を沖縄連隊区司令部が使用(ヒジ川橋近くに慰霊碑があることから)した可能性があり、また、高射砲陣地壕としても使用されていたのでは、ということである。これは、知念さんが仲嶺盛信さん(繁多川在住)から壕内で高射砲弾を発見したと聞いていることによる。草木に覆われて入り口ははっきりしない。(那覇市教育委員会97年調査)

17.シッポウジヌガマ
真地(識名霊園内 沖縄県農業試験場より向かって西側の地域)
自然洞窟を一部構築壕した壕。知念堅亀さんによれば、この壕がいわゆる「県庁の壕」(那覇市史の戦時記録では繁多川にあると記載)で、主として県庁と警察部が使用していた。入り口は自然洞窟2ヶ所と、構築壕により連結して個人の墓の入り口を利用したものが1ヶ所の計3ヶ所。自然洞窟のうち北側に位置するものは繁多川の人々には「四方地(しっぽうじ)のガマ」として知られている、という。3つの入り口のうち、北側に位置する自然洞窟は、霊園内の道を「東氏奥間家の墓」の裏手から東に10m入ったところに北向きに坑口を開けている。入り口は階段状になっており、右手に大きく植物が生えているために落ち葉が堆積している。2つ目の入り口は、自然洞窟で切り立った琉球石灰岩盤にやや上向きに斜めに口を開けており、東側には沖縄県ミバエ対策事業所の建物をのぞむ。入り口には落ち葉が堆積し、樹木の根が入り込みつつある。左手に古い墓が2つある。3つ目の入り口は個人の墓の入り口で現在はふさがれている。入り口の東に鉄塔・割り岩(わりじー)があり、3つの坑口の中でもっとも南に位置する。墓のうえの岩盤は火炎放射で黒く焼けこげている。(那覇市教育委員会97年調査)全長約130メートル。入口2ヵ所の内1カ所落盤。一部構築壕(約50メートル)。シンメーナービ(大なべ)用 のカマド2ヵ所、普通サイズのカマド3ヵ所。水が満杯の 井戸。火炎放射の跡。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

19.繁多川4丁目の住民避難壕
繁多川4-18
知念堅亀さんによると、昭和20年3月23日の空襲の際、金城廣さん(繁多川在住)の家族が一時的に避難していた壕(後に金城さんは隣にある新壕<ミーゴー>に移った)新壕(ミーゴー)のある新里康有氏の墓の右隣の墓庭にある。入り口は幅約1m、高さ50cmほどでクワズイモなどの植物が繁茂しつつあり、また、小石や土砂が堆積しつつある。(那覇市教育委員会97年調査)

18.新壕(ミーゴー)
繁多川4-18(いわゆる「繁多川の新壕(ミーゴー)」)
知念堅亀さんによると、十・十空襲の後に発見された自然洞窟をもとに新しく2つ坑道を構築壕し、壕として使用している。全長約100m。入り口は3ヶ所。主として那覇警察署職員や当時の真和志村長をはじめ、真和志村の職員およびその家族など約百数十人が利用していたという。また県庁の壕が未完成であったことや食事があまり良くなかったことから、一時、島田知事がこの壕に避難していたという。昭和20年5月11日、那覇署および真和志村関係者は、日本軍により壕から追い出される(那覇市史の戦時記録P217〜19)が、その後もここに居残ることを許され、この壕で終戦を迎えた方もいる、とのこと。(那覇市教育委員会97年調査)

19.繁多川4丁目の住民避難壕
繁多川4-3-18大城文男氏宅横の駐車場
知念堅亀さんによると、自然洞窟を利用した壕があったが昭和20年4月27日に米軍機からの爆弾投下があって、それにより洞窟(ガマ)が崩れてその中にいた人々は全滅したという。(おそらく15人から20人くらいは亡くなったのではないかということである)現在、駐車場となっている。壕の入り口は消滅(那覇市教育委員会97年調査)

20.カヨウヌガマ
繁多川4-6-12・4-6-14
(いわゆる「繁多川の嘉陽の壕(ガマ)」 知念堅亀さんによれば、繁多川では沢岻親方の墓のことを「嘉陽墓(うはか)」と呼び、その近くにあったガマであるので「カヨウヌガマ」と呼ぶようである。民間が使用していたのをあとで軍のものとして使用したという。(那覇市教育委員会97年調査)

21.識名宮ヌガマ(お宮のガマ)
繁多川4-1-43
識名宮の敷地内にあり、拝所となっている。通称「識名宮ヌガマ」あるいは「お宮のガマ」と呼ばれ、住民・軍の壕となっていた。現場は識名宮の後方にあり、入り口は識名宮の敷地内まで続き、空気孔が隣の神村次郎さんの敷地内にある。(那覇市教育委員会97年調査)奥行約7メートル、幅約10メートル。入口2カ 所。拝所。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

22.寺ヌクシヌガマ
繁多川4-1
通称「寺ヌクシヌガマ」。付近住民が大勢隠れた(十・十空襲)知念堅亀さんの証言。壕長の新田宗政さんが、真和志村戦争記に手記を寄せている。それによると区民約200人が入ったとされている。入り口は識名宮の裏手にあり、管理者の許しを得て敷地内に入る。あたりは雑草、木の枝に被われ、吉村荘側に約2m位の穴があいている。出口は吉村荘の下を通り、駐車場に続いていたが現在は埋められている。 (那覇市教育委員会97年調査)民家の下、全長約40メートル。入口1ヵ所。レ ンガのカマド3カ所。中央あたりに大量の土砂が積ってい る。拝所。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

23.ムラグヮヌガマ
繁多川5-17-20
通称ムラグヮヌガマ。戦前帽子をこのガマで編んでいた。十・十空襲には隣近所の人たちが避難していたが、軍に追い出されたらしい(嘉手納さん証言)佐久本嗣興さん宅の庭の中央あたりが入り口で現在金網で被われている。(那覇市教育委員会97年調査)
全長約7メートル。以前は道を隔てた向かいの家までガマ は続いて、もう一つの入口になっていた(佐久本さんの証 言)。現在は下水工事時の鉄板が遮っている。電柱がガマ 内まで突き抜けている。(1フィート運動の会92年〜93年調査)

24.イシジャヌガマ
繁多川5-15-9
通称イシダーヌガマ 現場は祖堅さんの屋敷内にあり、「四鎮嶽」という拝所となっている。入り口は屋敷裏に鳥居があり、拝所に階段が続いている。中間の位置に鉄柵があり、3ヶ所の自然洞窟がある。一番下方は、半分土に埋もれている。(那覇市教育委員会97年調査)庭の小高い山全体が自然洞窟になっている。入口3カ所。 複雑な構造。拝所。(1フィート運動の会92年〜93年調査)w

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