わたしたちの那覇市

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降伏調印式(嘉手納)
収容所
収容所
収容所の生活
 沖縄での組織的な戦闘は、1945(昭和20)年6月23日におわりましたが、アメリカ軍と正式に降伏調印したのは9月7日でした。また、日本国としての降伏は、8月15日で、正式に調印したのは、9月2日でした。
 それに先立ち7月26日にはアメリカ、イギリス、中国の三国は、ドイツのベルリン郊外 のポツダムに集まって、負けた後の日本をどうするかを決めていました。そのとき発表されたのがポツダム宣言 です。この宣言は、沖縄の戦後の運命を決定しました。まず、日本の領土としては、本州 、北海道、九州、四国と連合国が決定するいくつかの島々でした。沖縄は、ふくまれていません。アメリカは沖縄に上陸したときから、沖縄を占領するつもりでした。それは、太平洋における沖縄の場所が重要だったからです。そのため沖縄は、日本国から切り離され、アメリカ軍に支配されたのです。
 沖縄を占領したアメリカ軍は、十六カ所にほりょ収容所 をつくって、そこに沖縄の人々を入れました。大きく金網でかこった中にあるテント小屋で、何十人もいっしょに見知らぬ人どうしが生活しました。わりあてられたイモほり、さかなとり、軍用物資 を運ぶなどの作業をしながら、食べ物の配給を受けるのが、毎日の日課でした。 
 収容所での生活は、不安で心さびしくものでしたし、その中でも多くの人々が死んでいきました。その不安やさびしさをまぎらわせるために、だれかが、かんづめのあきかんにパラシュートのひもを弦とし、ベットの足をさおにして、カンカラ三味線をつくりました。音楽の好きな沖縄の人たちは、この三味線の音楽と歌で戦争の悲しみから立ち上がってきたのです。1945年の10月末になって、ようやくもとの村にかえることがゆるされました。しかしほとんどの家が焼けて、残っていませんでした。人々は、住む家をつくるのに、とても苦労しました。材木がなく、大工道具もクギもないときでした。



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