わたしたちの那覇市

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沖縄戦はじまる


太平洋戦争要図
疎開
小桜の塔(対馬丸遭難慰霊塔)
戦場動員
学生も戦場に動員される
 1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾にあるアメリカの海軍基地を攻撃しました。これとほぼ同時に、マレー半島のイギリス軍にも攻撃を加え、東南アジア各地から太平洋の島々まで、戦場を広げていきました。
 しかし、はじめ優勢だった日本軍は、1942(昭和17)年にミッドウェー海戦でアメリカ軍に負けてからは、しだいに不利になっていき、太平洋の島々がアメリカ軍にうばいかえされてしまいました。そして、沖縄の人々が出稼ぎにいっていたサイパン島も占領され、多くの人々がなくなりました。そこで日本政府は、アメリカ軍が沖縄に上陸するものとみて、アメリカ軍を沖縄にくぎづけにする作戦をとりました。

 政府は、沖縄から10万人の老人や婦人、子どもたちを日本本土や台湾に疎開させる計画をたてました。そのため沖縄から1944年7月から1945年の3月までに約7万人が南九州と台湾へ疎開していきました。湖南丸や疎開児童をのせた対馬丸などは、アメリカ軍の潜水艦によって沈没させられました。
 1944(昭和19)年の10月10日、那覇市をはじめ、各地の飛行場や港は、5回にわたるアメリカ軍の空襲をうけました。特に那覇市は集中的に攻撃され、市内の90%が焼け野原となりました。

 沖縄県民は、老人や婦人、子ども以外の人々は、全員戦争に協力しました。一般の男子で組織された防衛隊、師範学校や中学校、青年学校の生徒は、「鉄血勤皇隊」や「通信隊」に、高等女学校や中学校の女子は、「従軍看護隊」として野戦病院に配置されました。
 写真:「疎開」与那原町史編集室より
   :「戦場動員」沖縄県教育委員会より
 図版:「太平洋戦争要図」『沖縄戦から何を学ぶか』より


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