わたしたちの那覇市

地域の発展につくした先人にはどんな人がいたのかな


先人のはたらき

さとうづくりのはじまり
本で調べたよ:儀間真常
儀間真常の黒ざとうづくり
しぼり機の移り変わり
さとうきびの品種改良

黒糖づくりに挑戦


 さとうきびの品種改良 

 さとうの生産を高めるためには、よい品種のさとうきびをつくらなければなつません。
 沖縄で長い間つくられてきたのは、読谷山種といって、茎が細く、一本のさとうきびからしぼられるしるのりょうは、わずかなものでした。
 1924年、せいとうエ場につとめていた宮城鉄失という人が、「もっと良い品種をとり入れて生産をふやしたい」と考え、台湾にわたって大茎種をもち帰りました。大茎種は、茎が太く、読谷山種よりも多くのしるをとることができました。
 また、植え育もそれまでの「穴植え」から「うねたて植え」の方法を農家にしょうかいし、さとうきびからしぼる量をふやす努力をしました。現在では、県の農業試験場が中心になって品種の改良をすすめています。
読谷山種

大茎種

NCO360

うねたて植え 品種別取れ高の移り変わり



 鉄夫は,1877(明治10)年 名護市稲嶺の農家に生まれました。農民の間に育った鉄夫は,「農民の生活をよくするためには,農業のやり方をあらためるいがいにない」と考え,北海道の札幌農業大学で農業の勉強をしました。
 札幌農業大学をそつ業した鉄夫は,国頭郡組合農業学校の先生になりました。38さいの時鉄夫は「さとうきびの新しい品種をとり入れて,もっと生産をふやしたい」と考え,
農業学校の校長と沖縄県の技師をやめて,さとうきびづくりのさかんな台湾にわたり,台湾せいとう会社につとめました。そして,沖縄にもどり,台湾のすすんださとうきびづくりを農家の人たちに広めました。
 沖縄のさとうきびづくりを高めるために力をつくした鉄夫は,58さいでなくなりました。名護市の羽地内海の奥武島には,鉄夫をたたえて記念ひがたてられています。

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