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牧志2丁目1の2 |
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昭和33年1月17日 |
自了は、1614(万暦[ばんれき]42)年に首里[しゅり]の城間[ぐすくま]親雲上[ペーチン]の長男として生まれました。和名は城間清豊[せいほう]といい、自了は雅号[がごう]です。生まれた時から聾唖者[ろうあしゃ]でしたが、生来[せいらい]のすぐれた感覚があり独学で絵画を学びました。1633(崇禎6)年、19歳の時にその才能が首里王府に認められて王府の絵師[えし]として召[め]されました。自了の絵は、中国の冊封使[さっぽうし]
杜三策[とさんさく]や、江戸の画家 狩野安信[かのうやすのぶ]等に賞賛[しょうさん]されたといわれています。
「白沢」は、中国の想像上の神獣[しんじゅう]で人話を話すといわれ、黄帝[こうてい]が東海の海浜で会い、天下の鬼神[きしん]について尋ね、その姿を臣下に写させたといわれています。絵の上部の文章はその説明です。琉球には中国からたくさんの学問や技術が伝わっていたので、自了もそれらを学んでいたことでしょう。沖縄戦で自了の絵画はほとんど失われてしまいましたが、「白沢之図」は現存する貴重な作品となっています。 |
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