那覇地域マップ 中学校版
国指定文化財 記念物 史跡  
玉陵
たまうどぅん
玉陵 写真
所在地 首里金城町1丁目3-3-1
指定年月日 昭和47年5月15日
解説
 玉陵は第二尚氏の歴代国王の墓で、尚真[しょうしん]王が見上森[みあげもり]に葬られていた父尚円[しょうえん]王を移葬[いそう]するために築きました。墓前広場に建つ「玉陵碑[たまうどぅんひ]」には、そこに葬[ほうむ]られるべき人を限定したことが刻まれています。
 歴史書『琉球国由来記[りゅうきゅうこくゆらいき]』は、「玉陵碑」が建立[こんりゅう]された 1501(弘治[こうじ]14)年を玉陵の創建年としています。陵[りょう]の面積は2,442m2で、構造は建造当時の板葺[いたぶ]きの宮殿をかたちどり、 墓室前には当時の首里城正殿[しゅりじょうせいでん]前の石欄[せきらん]を思わせる 鳥獣花[ちょうじゅうか]等を彫[ほ]った石欄が取り付けられています。陵は切妻屋根型[きりづまやねがた]の3つの墓室が東西に連なり、墓の庭は南北2つに仕切[しき]られ、まわりは高い石垣で囲まれています。各墓室の入口には、 石の扉が取り付けられています。もとは石扉を閉めた後錠[じょう]をかけ、さらに入口を切石で塞[ふさ]ぎ、全面漆喰[しっくい]で 塗り固められるようになっていました。中央の墓室は遺骸[いがい]を葬[ほうむ]るところです。そして何年か経て次の葬送[そうそう]の際に洗骨[せんこつ]して、王、王妃、世子、世子妃は東室に、他は 西室に移葬しました。
 王の側室[そくしつ]や幼くして亡くなった王子、王女を葬る墓は、 玉陵とは別の首里[しゅり] 山川[やまがわ]町にある山川陵[やまがわりょう]と首里儀保[しゅりぎぼ]町西森[ニシムイ]にあった宝口陵[たからぐちりょう](戦災消失)でした。
 沖縄戦が始まった1945(昭和20)年8月、山川陵を日本 軍が使用することになり、同陵内の遺骨は仮に玉陵の墓前の 庭に移され、戦後さらに西室に移されました。玉陵は沖縄戦で 無惨に破壊されましたが、1974(昭和49)年から3年あまりの 歳月をかけ、修復されました。
一口メモ
『琉球国由来記』
 1713(康煕52)年11月の成立。王府時代の最大の体系的地誌。琉球古来の祭祀に詳しいのが特色で、琉球の伝統的な社会を理解するための最も基本的な文献。全21巻から成り、巻一王城の公式行事、巻二官職制度、巻三・四諸事の由来、巻五王城と首里の御嶽・祭祀、巻六玉陵、巻七泊村由来記、巻八那覇由来記、巻九唐栄(久米村)旧記、巻十寺院、巻十一権現社、巻十二〜二十一に他の地域の御嶽と祭祀を収めている。

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